2021年1月21日 | TOE
デザイン会社の社長がお笑いについて、真剣に考えてみた。

私の生業は、ご存知の通りデザイン会社の代表だ。
しかし、たまにお笑いとは何か?と、別に芸人を目指してるわけでもないのに考えることがある。
とりあえず、フックとしてタイトルで言ってしまったが、デザインとはあまり関係ないので、お笑いとデザインの相関関係に間する深そうな内容を期待しているのなら、読むのをやめておきましょう。
そもそも、人はなぜ笑うのか?
この問いに関しては、現代の科学でも明確にはわかっていない。
当然、テレビや動画、他人の言動に対して、面白いか、楽しいと感じるから笑うのだろうが、人を殺しても笑う、変態鬼畜も存在する。
そう言った意味では、人により感性も様々で、その笑いのツボというのも人それぞれである。
そして、その笑いのツボというのは、人によるのはもちろん、時代や環境によっても変わる。
30年前、ドリフがお茶の間をバズらせていたし、僕も見ていた。
最近コロナの影響によるネタ不足か、ドリフの再放送をやってるところがある。
しかし、今見ると全く笑えない。
僕も当時は、今では伝説のゲーム機「PCエンジン」の「カトちゃんケンちゃん」を、友達の家でよくやっていたくらいなので、好きだし、面白かった。
ドリフだけではない、さらに時代を遡ると、サーカスや日本の狂言も昔の人は爆笑していたのかもしれない。
これは、時代が変わったことで、人々の感性が変化したからに他ならない。
逆に現代の四千頭身のようなキャラは、30年前には脚光を浴びなかっただろう。
時代の流れに合わせて、笑いの最大公約数的な概念は変化しており、もっと言うと、これには人類の集合知的な感覚も関係していると思われる。
しかし、笑いには普遍的なものがある。
それは「ギリギリ」な部分だ。
人をイジるにも怒られるか、怒られないか、ギリギリの所が一番面白い。
リアクション芸人でも、爆破して、死ぬか、生きるかのギリギリが面白い。
より、爆発が大きく、より危ないのが、よりウケる。
こちらは少々、意図的に行うのは高等テクニックの部類に入るが、場が凍りつくほど滑るか、滑らないかのギリギリを攻めるのも同じくだ。(この場合は、意図せずそうなった場合が多い)
ツイート、発言でも、炎上するか、炎上しないかのギリギリがバズったりする。
このように、面白い人は必ずそこを狙って突いているものと思われる。
ドリフの話に戻ると、当時のドリフはその辺に突っ込んだ、実験的な番組だったのではないかと想像される。
「ギリギリ」が面白いのは、お笑いだけではない。
この概念は、あらゆることに共通すると思われる。
エッチな本でもビジネスでも、政治でも、教育でも、建築でも、その他クリエイティブでもそうだ。
そう言った意味でも、デザインに関しても、
ダサいか、ダサくないか。
新しいか、新しすぎないか。
社会からはみ出ているか、はみ出すぎてないか。
以上の間のギリギリ部分の表現こそが、最もイケてるデザインや表現と世の中では認識されているのではないだろうか。
(冒頭で、デザインとは無関係とは言ったが、そういえば関係あった。)
このように、ギリギリの部分こそが人の心を惹きつける。
そういう意味では、全てはギリギリを意識して生きてみたら、人生すらももっと面白く、刺激的なものになるのかもしれない。
(勇気とエネルギーいるけどねw)

長崎県の孤島、対馬出身。
趣味はサーフィン、音楽、オカルト捜査の旅。
幼少期より月刊「ムー」を愛読し、その影響から、口裂け女と人面犬におびえる日々を過ごす。
高校卒業後は、デザイン学校に進学するも、成績は基本最下位で、学校卒業後もフラフラした日々を過ごし、25歳の時、このままでは子供の頃、こんな大人にはなりたくないと思っていた「不自由な大人」になってしまうと考え、そこから改心する。
同時に先人の教えを学ぼうと宗教学、哲学、心理学を学び始める。
その後、印刷会社、デザイン事務所、広告代理店と、数々の会社を渡り歩く中で、元々持つ反体制的な思想からか、多くの会社は人間が本来のポテンシャルを発揮できる場所ではないと考えるようになり、29歳の時独立し、TOEを設立。
39歳からサーフィンを始める。